不便益で旅の効用を現代観光にインストールする

なぜバスツアーで乗客は寝てしまうのか

有名な観光地を巡るだけの観光、旅行会社がつくるパッケージツアーも修学旅行も全く面白くないと思う人は少なくないだろう。実際、旅行業法で募集型企画旅行と呼ばれるいわゆるパッケージツアーは年々販売額を減少させている。


かくいう自分も前職では旅行会社でツアー企画をしていた時に不思議に思っていたことがある。添乗員が同行するバスツアーでは多くの旅行参加者は移動中に景色を楽しむことなく熟睡しているのだ。ほぼすべての人が!ベテラン添乗員の中には、「これからしばらく移動が続きますので、ゆっくりお休みください」などという気の利いた?!人もいる。寝ること自体が悪いことではないけれども、「なんか違うな」といつも疑問に思っていた。海外旅行でも添乗員付きのツアーの場合、3日目くらいになると今日が何曜日で自分がどこにいるかも興味を示さなくなる。実は修学旅行も同様だ。


そして、現在大学教員として授業をしている時に同じような出来事に遭遇した。授業中、学生たちは良く寝るのだ。恥じらいもなく授業開始と同時に熟睡するツワモノもいる。バスツアーで添乗員をしているときの既視感に正直、驚いた。教員としては、よし寝ないように面白い授業にしようと試行錯誤するもどうもうまくいかない。よしこうなったら徹底的に調べようと思い、この2つを比較検討してみることにした。


添乗員付きバスツアーと大学の授業という全く関係ない2つの事象にある共通点があることがわかった。それは旅行者も学生も「受け身」になっていること。よく言えば「快適」で「安心」しきっていると言っても良い状態であることだ。「快適」で「安心」は、旅行会社の顧客への訴求によく使われるキーワードだ。また大学の授業は「快適」で「安心」とまではいかないが、教員の話を学生が聞く「受け身」スタイルだ。もちろん前方に座る学生の意識は高い。後方ほど寝る傾向がある。良かれと思ってやっていることが仇となり、旅の感動や知的好奇心を奪うことになっているのではないだろうか。そう考えているときに出会ったのが「不便益」という考え方だ。


「不便益」とは「不便から得られる益」のことである。あえて不便を追求することで得られるものがあるとする考え方と言っても良い。元々人工知能の研究者だった京都大学の川上教授らが研究しているもので、例えば、全国の幼稚園や保育園の中には、あえて園庭を平地ではなくデコボコにつくっているところがある。「平地だと大人がこどもを管理しやすいし、園児が転んでケガをするリスクが減ります。しかしあえてデコボコにすることによって、こどもが遊び方を工夫するようになります。実際にデコボコな園庭がある幼稚園のサイトを覗くと、写真に映っているこどもたちの顔がとても生き生きしています」と言う。


「不便益」との出会いをきっかけに、観光分野でも探してみたところザクザク事例が出てきた。自分自身の経験だが、由布院へ旅行になどに出かけたときのこと。GPSを搭載したスマホがあれば、駅から画面を頼りに目的地やホテルへ直行できる。しかし便利だが、発見がない。あえて、町の地図をなんとなく頭に入れて歩き出すと、やはり迷って町をさまよって時間がかかった。非効率だが、途中でおいしそうな焼き鳥屋さんを発見して入ってみるとそれが大当たり。スマホを使っていればきっと出会えていなかったであろう。便利でないことも時には思い出深い旅行になるものだ。


それ以外にも、例えば富士山の山頂までケーブルカーができたらどうだろうか。苦労して日本一の山へ登頂して拝むご来光の有難さは、失われるかもしれない。古くから「こんぴらさん」として親しまれている香川県琴平町の金刀比羅宮の785段の階段がエスカレーターになったり、車で本殿まで行けるようになったら便利かもしれないが、本殿からの絶景の感動とご利益は奪われるかもしれない。ディズニーランドの入場口が1つではなく、駐車場に近い場所にも複数あったとすると、そこから入場したゲストは夢と魔法の王国への没入感を奪われるかもしれない。


このようにしてみると、あえて不便である「不便益」の効用とは、行為者の能動性にあることがわかる。不便であるがゆえに、自らなんとかして苦難を乗り越えようとする人間の主体性を引き出す仕掛けであると考えることができよう。


旅と現代観光の相違

大量化・大衆化している現代観光は、快適で安全な移動手段や道路、宿泊施設など観光インフラが整備されていることで成り立っている。しかし、中世以前の「旅」はそうではない。人類が定住社会へ移行してから生まれた旅とは、「巡礼の旅」である。これは欧州でも日本でも同じ。参りを目的とした旅とは、危険を伴う苦行・修行であった。移動手段は徒歩で、道路は整備されていないし、宿泊施設もない。野宿か場合によっては、沿道住民の住居に泊めてもらうほかない。旅は「安心」「快適」ではないのだ。従って、旅とは参拝という目的達成が重要なのではなく、その過程が修行として人間の精神的な成長を形成するものとして重要視されていた。ここに旅が持つ学びの要素がある。


「安全」で「快適」な現代観光を、中世の旅のように苦行や修行にするのは現実的ではないが、その代わりに「不便益」の概念を組み込んで旅行者の能動性を刺激する仕掛けによって、より付加価値の高い旅へとブラッシュアップできるきっかけになるかもしれない。


また、旅という言葉の語源は、「給べ」に由来すると民俗学者の柳田国男が言っている。中世までの旅では、沿道住民が巡礼者である旅人に食べ物や寝床を無償で施すという習慣があり、それを表す言葉として「給う」と言っていた。「給う」の命令形として「給べ」があった。旅人を歓待する沿道住民にも巡礼者同様に参拝によるご利益があると考えられ、善い行いとされていた。その意味では、旅人と沿道住民には市場規範を超えた社会規範としての共通の目的を共有する関係性があったことがわかる。こうした旅人と住民との交流も旅のエッセンスのひとつであろう。


テクノロジーと旅

現在、私はANAの旅と学びの協議会でコアメンバーとして活動をしている。これはAPU学長の出口治明氏を代表にして「移動するほどイノベーションが起きやすくなる」という仮説の下、旅による学びの効用を科学的に研究しようという取り組みである。


20万年前に誕生した人類は、ずっと旅をしてきた。狩猟採集の移動を前提とした遊動社会から1万年前に定住化が始まり、現在は定住社会を前提として私たちは生きている。農耕革命、そして産業革命と人類はテクノロジーを手にして自分たちの能力を拡張させてきた。そのベクトルは、常に人間の能力の拡張である。第1次産業革命は蒸気機関・内燃機関などの動力革命であり、人間の歩く・走る能力以上の身体能力を手に入れた。第2次産業革命は、電話・ラジオ・テレビなどの通信革命である。これにより視覚・聴覚を使った意思疎通の範囲以上の感覚能力を獲得した。オンライン会議ツールもこの延長線上にある。第3次産業革命は、コンピューターやAIなど制御革命であり、人間の記憶力や情報処理能力を拡張する機能である。そして、こうしたテクノロジーのベクトルの根本には、「便利さ」を追求してきた人間の欲求がある。その一方で、「便利さ」故に奪われるものがあるということも知っておくべきであろう。


なぜなら、人間は必ずしも合理的な意思決定をする生き物ではないからである。近年、注目を集める行動経済学はこうした人間の不合理な意思決定の本質に目を向けたものだ。合理的な意思決定をする人間を前提としたこれまでの経済学が「規範的」であるとすれば、不合理な意思決定をしてしまう原理を説明する行動経済学は「現実的」である。不合理なことにこそ、旅のエッセンスがあるとすれば、現代観光の可能性が広がってくる。

現代観光が「快適」で「安全」さを訴求して予定調和を提供するものであるとすれば、旅は「不便益」を考慮した想定外の幸せ(セレンディピティ)を提供するものであると言えるかもしれない。事前期待によって得た情報を確認するための予定調和の現代観光では、旅行者はそれなりに満足するだろう。しかし、そこに感動はない。旅先で得た感動が心に残る記憶となって、それが人々を幸せにする。本来の旅の効用を現代観光にインストールすることができれば、もしかしたらあの時の悪夢は蘇らずに済むだろうかと夢想している。

(以上)

鮫島卓研究室 SAMETAKU-LAB

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