移動制限、3蜜回避、GoToも停止。観光は息の根を止められた状態だか、果たしてそうか。
現代観光は、交通機関を使い、宿泊施設に泊まり、飲食店で何かを飲み食いするという経済活動を前提としているが、中世までの旅は、そんな快適な旅を約束するサービスは皆無の時代。
玄奘、イブン・バトゥータ、マルコ・ポーロ、空海など歴代の旅人の旅は、快適さとは無縁だが、しかし、無償で人間の成長を伴う旅である。交通手段は、自分の足。泊まる場所は民家か野宿。旅は目的成就よりその過程にこそ、意味があった。見知らぬ赤の他人を泊める住民は、巡礼者を泊めることで自分にもご利益があると考えた時代。否、実際は旅人がもつ世界の知識と宿泊を価値交換していたという方が正解かもしれない。
自分の足で歩いて旅に出てはどうか。自転車で自分の足でこいで旅に出てはどうか。高速で進む景色は一瞬で過ぎ去り、記憶にも残らないが、一歩一歩足を進め、時に立ち止まって見た景色は何事にも変えがたい記憶になる。忙しなく通り過ぎたいつもの風景の中に、歩けば意外な発見があるものだ。
歴代の旅人が歩いた距離を、現代の私達は高速という価値を得て距離を稼いだが、一方でその道程にあるはずの記憶、能動性、達成感を失ったまま旅をしてきたかもしれない。おそらくオンライン会議が終わる時の刹那的な瞬間は、そうした余白の無さがもたらしているかもしれない。
フットパス、グレイト・トラバース、トランスカナダトレイルなど世界でも歩くという旅の基本に立ち還る運動はある。
歴代の旅人が生きていたら、きっとこう言うだろう。GoToがなくても旅はできる、と。
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