旅と学びの観点からのツーリストのリテラシー~不便益の活用~

さて、旅好きな皆さんにとって、コロナのために旅ができずにフラストレーションがたまっている人が多いと思います。まず初めにちょっと変わった実験の紹介をします。感染しない、感染をさせない旅行ができるのかを確かめる実験の旅を昨年9月に行いました。私自身が1泊2日で熊本と福岡を巡って、「人と会話をしない」で旅ができるかどうか確かめる実験です。そして、宿泊予定の福岡のホテルは、恐竜ロボットがフロントで出迎えてくれましたので、無事に会話をせずに済みました。実験の結果、ほぼ会話をせずに旅をすることができました。ただ、想定外だったのは熊本の路面電車でスマホ決済が作動せずに、現金で払わざるを得なくなったときに、慌てて運転手に「いくらですか?」と聞いてしまったこと。また羽田から自宅へ帰るときに利用したリムジンバスに乗客は私ひとりで貸切状態で大変申し訳なく、運転手さんと会話をしてしまったことくらいです。


さて、皆さんはこんな旅をどのように思いますか。この実験からわかったことは、私たちは意図して話そうとしない限り、スマホを駆使すれば人と対話をせずに旅をすることができるということです。しかし、こんな旅は本当に幸せだと言えるでしょうか。これではオンラインツアーでもよかったのではないかとさえ思いました。コロナ禍で普及したネットフリックスや「あつまれどうぶつの森」など巣ごもり消費に、こんな旅は対抗できるでしょうか。もしスマホを使わなければ確かに不便ですが、道を尋ねたり、おすすめのレストランを聞いたり、間違いなく人との対話は増えたでしょう。旅先の居酒屋で新しい友人ができたかもしれません。テクノロジーの発達のおかげで、効率的に便利になったのは間違いありません。しかし、ココロの充足・精神的な豊かさを得られたかと言われたら、疑問を持たざるをえません。この実験例は極端な例ですが、誰でも旅をすれば旅の効用を得られるというわけではなさそうです。よりよい旅、モノもココロも充足する旅をする技法、リテラシーが必要なのではないかという問題意識が芽生えます。



近年観光研究で「ツーリズム・リテラシー」という概念が注目されています。芸術、音楽、スポーツのように旅を文化的活動として考えて、よりより旅の技法を探究しようとするものです。旅と学びの文脈で考えれば、学びがある旅とは、自己変容できる旅と言えます。自己変容とは、「知らなかったことを知る」「見えなかったことが見える」「できなかったことができる」ことです。

観光とは、日常から非日常に行き、そして再び帰ってくる行為だと定義すると、自己変容する旅とは、元の同じ自分に帰るのではなく、なんらかの人間的変化をして戻ってくるということになります。ただ旅をすれば自己変容するのではなく、そこには何らかのリテラシーや技法が必要なのではないか。だとすれば、これまでのように観光学は旅の目的や行先を重視して、観光を提供する人のためだけの学問ではなく、旅人の人間的変化や内面世界の変化に注目して、よりよい旅をする人のための学問でもあるのではないかと、観光研究者の間でも議論されています。

旅をすれば、少なくとも訪問先の慣習や社会規範に従わなければなりません。またその過程で深い関与があれば、天動説世界観から地動説的世界観へ、人間の内面に複数の世界をもつ、自己相対化した世界観をもつことができます。そうした内面における自己変容を私は「観光的転回」と呼んでいます。


例えば、ビーチリゾートとして有名なグアムは真珠湾攻撃と同じ時期に日本軍が占領して大宮島と名付けられた歴史があります。ビーチでよく見かけるゴツゴツしたコンクリートの塊は「トーチカ」と呼ばれる再上陸する米軍を阻止すためにつくられた要塞の戦跡です。当然多くの犠牲者が出ている現場です。そのことを知れば、その上によじ登って酒盛りをするようなことは誰もしないでしょう。「知らなかったこと知る」、「見えなかったことが見える」とはそういうことです。観光とは光を観ると書きますが、光が影に見えたり、逆に影が光に見えたりするような自己変容です。自己中心的な旅、インスタ映えを確認するためだけの旅では、元の自分に戻る閉じたループになるということです。ツーリズム・リテラシーの考え方に従えば、「観光的転回」による自己変容は、何らかの技法が必要です。

では自己変容を促す旅とはどんなものでしょうか。それを考える手掛かりとして、「ディープ・アクティブラーニング」という考え方があります。アメリカの教育学者のバークレーは、体験学習において主体的に自己変容を促す要素として3つの「深い関与」があると主張しています。1つは、課題を適度にチャレンジングにすること、2つ目は交流や振り返りで多様な視点で気づきを活性化するコミュニティを活用すること、3つ目が頭でっかちでなくホリスティック、つまり体験やロールプレイなどで当事者の視点を得ることです。私はこれにもう1つ「自己変容の可視化」も加えた4つの要素があるとの仮説をもっています。中でも、1つ目のチャレンジングな課題提供を考える手掛かりとして、学びに手間を加える「不便益」の活用が有効なのではないかと考えています。


それでは不便益とは何でしょうか。不便益とは、不便だからこそ得られる効用のことで、不便を我慢することで得られる効用ではありません。決して縄文時代に帰れと言っているものではありません。

これまでの商品開発は、不便を便利に変えることで人々の欲求を満たしてきました。便利になったことで、わたしたちは確実に物質的な豊かさを享受してきたと言えます。しかし、冒頭の実験のように、ココロの充足や精神的な豊かさを享受してきたのかと言われれば、疑問が残ります。そこで、益と害という「精神的な豊かさ」の軸を加えた4面で考えてみることで、これまでの「便利益」「不便害」に加えて「便利害」と「不便益」という概念が生まれました。冒頭の私の旅は、「便利害」と言えるかもしれません。

不便にも良いことがあるというと不思議に思うかもしれませんので、ひとつ例を挙げます。岐阜県白川郷は、合掌造りという独特な建築様式の家屋が保存され、今でも住民たちが暮らす「生きる世界遺産」です。30年くらいに1度、合掌造りの葺き替えを住民総出で行います。現代の一般的な建築に比べると、手間と労力を必要としてとても不便です。しかし、この村を挙げての「組織的DIY」は、合掌造り技術を世代間で継承し、相互扶助による住民の結束力を高め、そして何よりこうした保存活動によって類まれな世界遺産として住民の誇りを醸成しています。これまでの研究で不便益には、8つの効用があることがわかっており、白川郷はまさにすべての要件を満たす不便益のキングと言える現象です。

では、不便益を「旅と学び」に当てはめるとどうなるでしょうか。不便益とは、コンフォートとパニックの間にあるストレッチゾーンとして、「学びの手間」を加えるものであると考えることができます。旅人の心には、解放感と緊張感が混在するものなので、実際のプログラムではコンフォートゾーンとストレッチゾーンの両方をデザインしていくことになると思います。



不便益の実装例として、最近話題のクラブハウスは、典型的な不便益のイノベーションと言えます。音声版Twitterとも呼ばれますが、音だけ、録音不可、招待のみと様々な制約があるにもかかわらず大人気です。不便益の観点から言えば、何らかの制約を加えることで「居酒屋感」「井戸端会議感」「一期一会感」、「弱いつながり感」などコロナで失われた心の充足を満たすものと言えます。


旅と学びの不便益は、修学旅行など教育旅行にだけ適用されるものではなく、一般の人々が充実した心豊かな旅をするのにも有効です。例えば、イギリスではじまった自分の足で歩くことを推奨するフットパスは良い例です。ゆっくり寄り道をしながら歩くと意外と発見が多いものです。24時間かけて船でしか行けない小笠原は、まさに不便益デスティネーションです。また、1979年の創刊当時の地球の歩き方で旅をしてみると、どんな旅ができるでしょうか。間違いなくドキドキわくわくの地球の迷い方の旅を実現できるはずです。しかし、これは人によってはパニックゾーンになるかもしれないので上級者向きかもしれません。観光における不便益研究はまだまだ発展途上ですので、アイデア探しや実証研究をぜひ皆さんとやってみたいものです。いずれにせよ、最先端のテクノロジーを求めることだけがすべてではないのです。その意味で、不便益はリアルの旅の経験価値向上の希望の光ともいえるかもしれません。


最後に不便益には、もうひとつ大切な観点があります。不便益が、SDGsの実現に貢献することです。有限な地球の中で、私たち人類が際限のない欲望を満たし続けることは、新たな生存可能な惑星へ脱出する以外、持続可能とは言えません。しかし、だからといって縄文時代のライフスタイルに戻ることは現実的ではありません。そうした中で、不便益は、節度ある欲望を満たす資本主義、もうひとつのパラダイムとしての可能性を秘めていると考えています。

(以上)

鮫島卓研究室 SAMETAKU-LAB

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