生産者と消費者の分断を紡ぐ観光の役割~『アダム・スミス』を読み解く~

あなたの今日食べた食べ物は、誰がどこでのようにつくったものかー。

あなたの今日着ている服は、誰がどこでのようにつくったものかー。


現代は情報社会。自宅にいながらクリックひとつでモノが届くとても便利な社会だ。しかし、上記の問いに答えられる人はどれだけいるだろうか。誰が、どこで、どのようにつくっているのかを考えることなく消費している人がほとんどであろう。またそれらを知る手段も限られている。


受動的消費者社会の歪み

確かにスーパーでは、生産者の写真と名前が載せられた野菜のパッケージやポップがあり、様々な売り場でそのような掲示がなされていることもある。食べ物にせよ、衣服にせよ、多くのモノの生産・製造過程や流通過程はすっかりブラックボックス化し、作り手の思いどころか、生産プロセスの詳細を知ることは簡単ではない。


こうして消費者はすっかり生産者から分断され、食べ物やモノがもともとは地球上の生き物やその生産物であるという感覚さえ失いかけている。命を頂く「いただきます」という儀式さえ、食卓から消えつつある。


このような消費者が増えるとどうなるか。「安くしろ」「おいしくしろ」「いいものにしろ」と自己の欲望のままにを要求をするようになり、それがかなわないとなるとクレームをつけるようになる。消費者が単なるサービスの受益者になると、あらゆることが他人事となって、傍観者・評論家の立場で文句ばかり言うようになってしまう。こうなると、生産者に対する感謝、尊敬、信頼、思いやりはなくなる。本当にそれでいいのか。


このように消費者が受動的な傍観者として大きな力を持つ消費社会の歪みは、食べ物や衣服に限らず、ビジネス、政治、行政サービス、学校教育などあらゆる分野で起こっている。さらにマスコミもそれに加担していると思われることも多い。提供する人と消費する人の人間関係がギスギスしていて、働くことを怖がる学生が増えているのは、受動的消費者社会の弊害と言えるだろう。生産者への感謝、尊敬、信頼、思いやりをもって社会をより良くする能動的消費者のいる社会は実現できないものだろうか。


市場経済の中の個人

生産者と消費者の関係性を考えるために、経済学の古典に立ち戻って考えてみよう。


近代経済学の父アダム・スミスは、かの有名な『国富論』で、個人の利己心にもとづいた経済行動が社会全体の利益をもたらすと論じた。しかし、そこで想定される個人とは、社会から切り離された個人ではなく、他人に同感(他人の感情を自分の心の中に写しとり、それと同じ感情を自分の中に起こそうとする能力)し、他人から同感されることを求める社会的存在としての個人であることを『国富論」に先立って書いた『道徳感情論』で論じている。人間とは他人から関心を持たれること、同感されることを望む社会的存在だということである。そして、個人は自分が所属する社会で一般的に通用する「公平な観察者」を心の中に形成して、自分の感情や行為を胸中の「公平な観察者」が是認するものになるよう努力する。そのような個人の性質が、社会の秩序を形成すると考えた。


また、社会の繁栄も人間が社会的存在であることによって説明される。他人から歓喜の関心を持たれることを望むため富や高い地位を求め、悲哀の関心を持たれないようにするために貧困や低い地位を避けようとする。ここに「お金持ちになりたい」という財産形成の野心の起源があり、その野心(際限のない欲望)によって市場は拡大し、資本は増大して、社会は繁栄すると考えた。


また、人間には、自分の利害、あるいは世間の評判を優先させて行動する「弱さ」と、胸中の「公平な観察者」の判断に従って行動する「賢明さ」の両方をもつという人間観を、スミスは持っていた。「弱さ」が社会の繁栄の原動力になり、「賢明さ」が社会の秩序を形成すると考えた。つまり、「弱さ(=際限のない欲望や競争)」は、「賢明さ(=公平な観察者による正義感)」によって制御されなければならないとした。


スミスは、『国富論』において、社会的存在としての個人が、胸中の「公平な観察者」として正義感(賢明さ)をもつという制約条件のもとで、自分の利益(弱さ=際限のない欲望や競争)を最大化するように行動する者として描いている。これがスミスの描いた仮定する個人の経済行動である。このような個人の性質が正義の法の土台を為して「見えざる手」が働き、社会の秩序と繁栄を形成すると考えたのだ。

人と人とつなぐ市場の意味

スミスは、個人の中の賢明な正義感をもった公平な観察者によって制御されるという前提に、自己の利益を最大化しようとする(利己心)を求める個人の経済行動によって市場経済が機能すると考えていた。スミスにとって、市場は単に取引交易によって富を移転させるだけでなく、人と人をつなぐ機能を見出していた。

スミスにとって市場は、富を媒介にして見知らぬ者同士が世話を交換する場であった。人間は市場を介して、家族や職場など「強いつながり」の者ではない他人から世話を受けることができる。同感という能力を用いて、見知らぬ者同士が富を交換する社会、これが市場経済の本質である。

またスミスが説いた経済成長は、単に富が増大することだけではなく、富んだ人と貧しい人の間にもつながりができることを意味した。富む者が財産をしまい込めば何もつながりは生まれないが、より大きな財産を形成しようという野心から、投資をすることで経済が成長して、労働需要が増大して所得移転が進む。富む者が貧しい者を助けようという意図がなくても、両者は富を媒介にしてつながることができると考えた。


このように「古典」を整理すると、スミスが唱えた市場経済とは、利己心にもとづいた競争を促進することで高い経済成長を実現して、豊かで強い国をつくるべきだと主張するようなイメージとは異なることに気づくだろう。むき出しの利己心とは人間の「弱さ」であり、それが胸中の「公平な観察者」によって制御されることが、社会の秩序と公正な市場経済を形成する前提となっていることをスミスは強調している。そして、人間の持つ同感(他人の感情を自分の心の中に写しとり、それと同じ感情を自分の中に起こそうとする能力)を用いて、全くのつながりのない他人同士で富の交換をすることが、市場経済の秩序と繁栄を形成していると考えたのである。



生産者と消費者とつなぐ「弱いつながり」としての観光

このように考えると、冒頭に述べた自己の欲望を求めるだけの受動的消費者と、スミスが説いた個人とは異なるものであることがわかる。スミスが唱えた個人とは、同感という能力をもった社会的存在としての個人である。現代の受動的消費者とは、同感を持たず胸中の「公平な観察者」がいない野心をむき出しにした個人である。それは、「他人から関心を持たれたい」「相手に認められたい」という社会的存在としての個人とはかけ離れている。


生産者と消費者の分断を紡ぎ治して、生産者に無関心な受動的消費者から生産者に感謝と信頼をもつ能動的消費者へ行動変容を促すことはできるだろうか。それは、スミスの言う人びとの同感を取り戻すことにヒントがある。相互に無関心で分断された関係性ではなくて、相互に関心を持ちつつも見知らぬ他人同士の関係性、つまり「弱いつながり」を生産者と消費者の間に築くことである。


その意味で、観光はその解決に貢献できる可能性は大きい。旅をすると、人間はその土地の慣習やルールに従って過ごさなければならない。そのことを通じて自分とは異なる複数の視点や価値観、内面世界を得ることを促す。天動説的世界観から地動説的世界観へと自己変容する。こうした観光的転回が、受動的消費者から能動的消費者へ行動変容を起こす。ただ旅をすればよいのではなく、そのためには深い関与が必要である。近年表出しているボランティア・ツーリズムスタディツーリズムダーク・ツーリズムなど新しい観光の形態を、従来の「自分のための楽しみのための旅行」として観光を定義することは困難である。こうした観点に立って、教育・学び、健康・福祉、アートという切り口から、地域との深い関与をもつ観光のあり方が、生産者と消費者の分断を紡ぎ治すことに寄与するかもしれない。学びや交流によって、相互の立場を逆転させたり、相手の視点をもつ深い関与を意図的に起こすことで「弱いつながり」を形成させ、分断を紡ぐことができないか。それはまさにスミスの言う同感をもつ社会的存在としての消費者の育成にも貢献する。


人が見知らぬ地へ旅をすることができるのは、受け入れる側が排除でなく許容することが前提となる。これは他の動物にはない人間だけの営みだ。旅人は、日常の束縛から解放された身軽さを保持している。そうした身軽さこそが、むしろ強みである。旅人とは、日常生活を共にする「強いつながり」がある村人でもなく、一方で全く他人に同感しない利己的な存在でもない。そうした中庸としての旅人が、関係人口となって地域の活性化に関与することは、珍しいことではない。ツーリズムによる旅人(消費者)と村人(生産者)による「弱いつながり」が、何かを創造するきっかけをつくる。


「弱いつながり」の創造が、市場経済を心豊かな営みにしてくれるとしたら、観光に新たな可能性が広がるかもしれない。


<参考文献>アダム・スミスの引用は、下記を参考にしている。

堂目 卓生(2008)「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界」中公新書

鮫島卓研究室 SAMETAKU-LAB

鮫島卓研究室の研究・大学教育・ゼミ活動・社会貢献などの活動をお知らせするサイトです。

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