スティ-ブ・ジョブズが尊敬してやまなかったSONY盛田昭夫の旅

 世界を変えるイノベーションを起こした企業の経営者や技術者は、実によく旅をしている。SONYの創業者のひとり盛田昭夫氏もそのひとりだ。現代の若い人たちにとっては、盛田昭夫といってもピンと来ないかもしれないが、アップルの創業者スティーブ・ジョブズが尊敬してやまなかった人物だと言われていると聞くと、驚く人も多いのではないだろうか。実際、1999年ジョブズは盛田氏が亡くなった2日後に開かれたiMac DVの商品発表時にSONYの「ウォークマン」を持ち出し「アップルは、コンピューター業界のソニーになることを目指してきた。今日の発表を盛田氏が喜んでくれたら嬉しい。」と追悼をした。アップルのタグライン“Think different”は、SONYの初期のタグライン"Research Makes the Difference"を意識したものであるし、アップルストアの展開はSONYのショールームを模倣している。何より今までにない新しい製品をつくり、世界を驚かせること、つまりイノベーションを起こす企業と言う意味では共通している。


 そんな盛田氏の覚醒の転機となったのが「初めての欧米旅行」である。その著書『MADE IN JAPAN』にその様子が詳しく書かれている。盛田氏が始めて渡米したのは、1953年8月。海外旅行が自由化された東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)よりも前に渡航したことになる。当時のフライトは、プロペラ機で燃料給油のためにハワイなどを島づたいに離着陸を繰り返して、サンフランシスコ、シカゴ経由でニューヨークまで50時間以上もかかった時代。少年のように期待に胸を膨らませて出発したが、いざアメリカに着くとそのスケールに「完全に打ちのめされた」そうだ。「何もかもがあまりに大きく、遠く、広大で、かつ多様だった。こんな国でわが社(当時は東京通信工業)の製品を売るのは、とうてい無理な話だと思った。私はただ、ただ、圧倒された。好景気に沸くこの国に、足りないものなど何一つないような気がした。」と述べている。


  盛田氏が渡米してニューヨークに出かけたのは、当時トランジスタの特許をもっていたウェスタン・エレクトリック社と特許使用の契約をするためだった。SONYを世界に知らしめたかの「トランジスタラジオ」の基盤となる技術である。その後、その足でアメリカからヨーロッパへ渡り、フォルクス・ワーゲン、メルセデス、シーメンスなどを巡る。「たくさんの会社や工場を見学しながら、どうやったら彼らと競争できるのかと悩み続けていた」。ある日彼は大好きなアイスクリーㇺを注文すると、その上に飾りの小さな日傘がさしてあった。「これはあなたの国のものですよ」とボーイはお世辞のつもりで言ったのだが、「メイド・イン・ジャパンの認識はこの程度のものなのだ。」。アメリカに圧倒され、西ドイツでも焦燥感を募らせた。当時の「メイド・イン・ジャパン」と言えば、工芸品などの安かろう悪かろうの代名詞であったのだ。


 すっかり自信を無くした盛田氏に自信をもたらしたのがオランダでの出会いだ。その小さな農業国の片田舎の町アイントホーフェンに降り立った時、フィリップス本社の「あまりの大きさに度肝を抜かれた」と告白している。「農業国のこんな辺ぴな町に生まれた人間(フィリップス博士)が、高度な技術を持つ世界的な企業を設立したことに改めて感銘を覚えた。それと同時に、小国日本の我々にも、あるいは同じようなことができるかもしれない。そう考え始めた。オランダから出した井深氏への手紙にフィリップスにできたことなら、我々にもできるかもしれないと書いたのを覚えている」と述懐している。3ヶ月の欧米の旅から帰国するとすぐに「世界の東通工」という方針を打ち出した。驚くべきなのは、会社も立ち上げてままならない時から、業種を問わず世界企業との競争を意識していたことだ。


 幼年、盛田氏の父は、よくこんなことを言っていたという。「本人が自ら勉学に励まない限り、どんな大金を投じてもその人を教育することはできない。だが、お金によってできる教育が一つだけある。それは旅行である。」と。旅行は単にリラックスして、現実逃避をする遊びのためだけではない。好奇心を胸に新たな出会いを探求するのも旅行の役割のひとつである。欧米の旅をした盛田氏にとって日本は、大男ガリバーが小人国リリパット国を訪れた時のように、広い世界地図の中の小さな小国であるという理解であったと思う。当時の日本は高度経済成長を迎える前夜であるし、人口も増加して国内需要も旺盛であった。しかし、日本だけを見ずに最初から世界で戦う視点を持っていたのは、なぜだろうか。それは、日本は反骨心にも近い謙虚さと高い問題意識、複数の国を見て多様な選択肢を得たこと、そして何より自分の足で歩いた自己効力感にあったのではないか。短い期間で、誰かが用意したお仕着せの旅行では、こうはならない。

1996年以来2017年までの約20数年間、一人当たりの名目GDPの伸び率(ドルベース)でアメリカは約2倍、ドイツが1.64倍、の一方で日本は0.99倍である。さらに言えば、韓国も2倍以上、中国はもっと高い成長である。日本が失われた20年で低迷していある間、他国がそれをはるかに上回る成長しているのだ。現代社会に生きている私たち日本人にとって「メイド・イン・ジャパン」は高品質・高性能の代名詞である。しかし、それは盛田氏をはじめ多くの先人たちが築いた努力の上にあるものであって、私たち現代人はその資産にフリーライドしているだけではないだろうか。盛田氏がもし生きていたら今の日本に何と言うだろうか。晩年、SONYの部長会での盛田氏の最後のメッセージはこうだ。「私らの歴史を見ると、非常に大きなイノベーションをして、世の中を変えた。社会に貢献した。しかし、そのシードはみんなアメリカにあったんです。シードは向こうから拾ってきてですね、それを我々の知恵で発展したところに、日本の産業人の非常な力があるわけです。ところが、日本の産業人は世界で一番強いような錯覚に陥っている。その錯覚をもう一遍反省し、目を開く必要があるのではないか。(中略)あなた方はバック・トュ・ベイシックで本当に製品をどうしたら誰にも負けないものをつくるかということ、それが本務だということを忘れないで欲しい。皆さんの心を持ち方を入れ替えて、世の中、変革の時代ですから、勇気をもって変革をしてもらいたい。これを最後のお願いとしたいと思います。」1999年の言葉である。


 失われた20年。新しいテクノロジーを活用した様々な製品やサービスの商品化とその普及において、日本企業は後塵を拝している。GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)を越える第2のSONYが日本から生まれるためには何をすべきか。その意味では、盛田氏の言葉は重い。観光に関わる者として言うとすれば、単にリゾートでのんびりゆっくりする旅行だけではなく、今一度襟を正して、海を渡り自らの成長のシーズを探して世界の競争相手から真摯に学び取る旅が求められていると思う。旅行会社の商品も世界から学ぶことができる商品をぜひ企画して欲しい。

(以上)


<参考文献>
盛田昭夫『MADE IN JAPAN』朝日文庫1990
辻野晃一郎『グーグルで必要なことはみんなソニーが教えてくれた』新潮社2010
森健二『ソニー盛田昭夫』ダイヤモンド社2016

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