見ているようで見えていない
授業の時に「今日、大学まで来る通学途中にバスの運転手はどんな人でしたか?」と訊くと、ほとんどの学生は「男性の運転手でした」と答えます。しかし、「どんな制服でしたか?帽子をかぶっていましたか?何色のシャツでしたか?手袋はしていましたか?メガネをかけていましたか?何歳くらい?」など細部について訊いてもほとんどの学生は答えられません。はたして学生は運転手を見ていたと言えるでしょうか。
ある時、私の友人がこんなことを言っていました。「妻が妊娠して初めて自宅から最寄り駅までの通勤途中に3軒の産婦人科があることに気づいたよ」と。毎日同じ道で通勤しているにもかかわらず、その友人は産婦人科の病院が見えていなかったのです。正確に言えば、見ていたかもしれないけど、見えていなかったということです。事件の証言で求められる人間の目撃情報がいかにあいまいかということが言えますね(笑)。少なくとも「見る」という行為は「見えている」または「わかっている」ということは別物だと理解すべきでしょう。
「人間は自分の持っている知識の量でしか、対象を見ることはできない」
' The tool is only good as the man who wields it.'
知識とは、モノも見る道具であるということを最もよく理解できるのは、外国語を学ぶ時です。初めて外国語の文字を見た時に「文字」ではなく、「模様」「記号」としてみていると思います。しかし、言語のルール・規則や意味を理解してから同じ文字を見ると、そこには単なる「模様」「記号」でなはく意味のある「文字」に変わっているものです。
観るということ
もっと「見る」ということに拘って考えてみましょう。皆さんは、犬と猫の違いは何かを説明できますか?
この問いに対する答えに困っている人が意外にも多いのではないでしょうか。見た目ではすぐに判別ができるのに、いざ説明しよとすると意外と難しいものです。犬も猫も同じ4本の足があります。2つの目があります。肌は毛におおわれています。尻尾が一本あります、などなど共通点が意外にも多く、違いが少ないからです。写真を見て犬か猫かを判別できたのは、あなた自身が頭に描いている犬というイメージ・猫というイメージと、目の前の生き物を重ねて推測しているのです。確かめたわけではありません。
しかし、その違いを明確に説明するためには、全体を見ただけでは難しいものです。この時に「見る」でなく「観る」技術が必要になります。
一方、同じ見るでも「観る」という言葉があります。「観」という字を使った言葉に「観光」があります。皆さんが学ぶ観光学で使われている「観光」とは、古代中国の周の時代に書かれた『易教』に出てくる一説「国の光を観る」が起源となっており、「他国の類まれな宝や実情を視察すること、および見聞を広げること」を意味しているそうです。今では「観光」と言えば、遊び・娯楽・楽しみを意味する言葉ですが、元来「観光」には、学ぶという意味が含まれているようです。
研究テーマを探す学問の「問い」
次に「学ぶ」とは何か考えてみましょう。
学問とは後ろ向きな行為
私の大学院時代の指導教官にこんなことを言われて驚いた経験があります。「自分が調べた事柄について、将来はこうすべきだとか、将来はこのように変化するであろうとかを述べるのは、学問ではない。学問とは、常に事実の説明という後ろ向きな行為である。」この言葉を聞いて反発した心情をもった記憶があります。自分の独自の主張をすることが論文ではないのかと。しかし、研究を進めていくうちにこの言葉の大切さを実感していくことになります。
人間が見ている事実とは、本当のことなのかどうか実は怪しいものです。それを示した事例が冒頭の質問です。私たち人間は「見ているようで見えていない」のです。私も研究を進めていくうちに、自分がその分野に関してただ知っているつもりなっていたことを痛感しました。私の知識の程度とは、漠然としたおぼろげな全体像(イメージ)や氷山の一角しかみていなかったのです。学問とは既に起こった事象について、それがなぜ起こったのか、その辿った経過がなぜそうなったのかを科学的な方法で調べ、丹念に細部をひとつひとつ説明していくことに尽きます。それができれば研究対象としている事象が、おぼろげでなんとなくのイメージではなく、くっきりと鮮明に浮かび上がってくるのです。
1543年に種子島に伝来した火縄銃。複製を作るように命じられた刀鍛冶の八板金兵衛(やいた きんべえ)らがたった4ヶ月という短い時間で日本初の火縄銃を完成させました。この時に、八板金兵衛がおぼろげな全体像でしか火縄銃を見ていなかったら、32年後に織田信長が長篠の戦いで大量に火縄銃を実戦で使い勝利することはなかったでしょう。科学的な研究とは、あなたが説明した手順で同じことをした時に同じ結果になるという再現性・一般性こそが求められるのです。
学問は創造的な行為
学問とは、当たり前を疑ってあえて「問い」を立てて、既に起こったことを「観る」後ろ向きなものだと言えば、「そんなの意味がないよ」という声が聞こえてきそうです。しかし、断言します。そんなことはありません。社会に出て、こうした学問の姿勢を身につけた人は、どんなところでも重宝されます。これは、上司から新しい企画を求められ、顧客に新たな提案を求められた時に最も力を発揮します。課題をみつけ、根拠をもって説明できれば、説得力を持ちます。それは単なる推論でなく、論理的な推論(仮説)になるのです。
また、学問が役立つことのひとつに類推力(Analogy)があります。類推とは、似たような事柄を他にも推しはかること、相互に類似する点をもとにして、ひとつの特殊な事象から他の事象へ推理を及ぼすことです。この類推は、研究の方法としてしばしば使われます。類推法とは、「ある事象に関する説明あるいは分析方法を、その事象のもつ特定の要素あるいは条件に着目して、それと共通性のある要素あるいは条件をもっていると考えられる他の事象に適用することによって、解明の手がかりを得ようとすること」です。
新しいアイデアや商品とは、ゼロからつくりあげられるのではなく、異なる分野や遠い国からの模倣によって実現していることがわかっています。イタリアでのエスプレッソバーでの体験をきっかけに創業したアメリカのスターバックス、ニューヨークの交差点に停まっていた配送車から個人向け宅急便を開発したクロネコヤマト、アメリカのスーパーマーケットの陳列方法から編み出したトヨタ自動車の生産管理手法「カンバン方式」、韓国のメガネ店での格安メガネの発見とユニクロの小売製造というビジネスモデルから「アイウェア」を開発したJINSなど枚挙にいとまがありません。類推力がイノベーションの役に立っているのです。
大学での「学問」とは研究をすることであり、知識を得るだけの「学習」とは異なります。研究を進めるには、物事を単に「見る」ではなく「観る」ことで可能になります。「観る力」を身につけるのは簡単ではありません。しかし、各自関心のあるテーマを対象に探究していく「研究」を通じて、「観る力」を訓練をするのが、論文を書くことの意義なのです。
(以上)
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