新型コロナウィルスの感染拡大によって多くの人びとの行動変容が迫られています。観光は不要不急の対象となり、動きが止まっています。私自身の研究対象もその多くは、旅先にあるため、研究活動もストップしています。外出するといえば、食料品を買うためにスーパーに行くくらいの生活が続いています。そんな状態なので、普段なら食料品を買うためのスーパーが、私にとっては貴重な観察対象になっています。
食料品を買うときは、なんとなくでも今日はこれが食べたいななどとイメージしていくことが多いのものです。実際にスーパーに行って、必要な食材だけを集めてレジへ向かう人はどれくらいいるのだろうとふと思ったのです。私自身も今日はカレーかなと思い、入店当初はその食材を手にしていたつもりが、店内を歩いているうちにせっかくだからスパイスにこだわってみようかなとか、ビーフカレーのつもりだったけどキーマカレーもいいな、やっぱりインド風ならマンゴーラッシーも必要だなど想像が膨らみ、気が付くと意図していなかったものまで購入していることに、後々気づくわけです。
よく考えると、顧客の希望を叶えるだけなら、カレーコーナーでまとめてくれれば最短時間・最短距離で事が済むはずなのに、スーパーの商品陳列はそうなっていません。むしろ、多様な売り場を見せて、たくさんの通路を回遊するように配置されています。いろいろな売り場を見ているうちに、夕食のアイデアを膨らませ、時には試食コーナーがあったりすると、期待していた夕食のメニューとは全く関係のない食材を購入してしまったり・・・・。いつもその術中にはまってしまっている自分がいます。まさに、お店の努力と工夫に完敗です(笑)。
面白いのは、そうした購買行動をしたとしても不満を持つ消費者は少ないことです。むしろ、買い物とは、事前期待とは異なる無駄を楽しんでいるのではとも思える行動を多くの消費者がとっていることがわかります。
(浅草寺の仲見世。2019年4月筆者撮影)
実は、観光地をデザインすることも同じ原理ではないかと思うのです。旅行者が期待するものだけを提供するのが観光地づくりではないのです。旅行者に、さらに何かを見たい、体験したい、食べたい、楽しみたいという気持ちを抱かせるような仕組みを考えることが、観光をデザインすることではないかと思います。
その典型例でいえば、浅草寺の門前町の仲見世とディズニーランドのワールドバザール。全く関係ないと思われるこの2つには、ある共通点があります。それはシンボルに向かって必ず通るべき導線が用意されていることです。浅草寺で仲見世の裏通りを歩くのは、混雑が嫌いな人かリピーターでしょう。シンボルとはその観光地の目的地です。旅行者に期待するものだけを提供するなら、利便性を考えてシンボルを一番前に持ってくればよいはずです。しかし、そうではなくてあえて目的地を遠くに見せながら、わざわざ通路を歩かせて、その道程自体を付加価値に変えているのです。しかも往復で!目的地につくまでに、あれやこれや「無駄な」時間を使い、ついには財布のひもが緩んだ経験のある人は多いでしょう。
このように、この2つのケースは、歩くことを前提とした回遊性と滞留時間を伸ばすための空間設計がなされ、賑わいが保たれている典型的なケースです。私たちは後々やられた~と反省するわけでもなく、今日の戦利品を同行者と見せ合って、旅の思い出に浸るわけです。
(以上)
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