5月から「旅人のための観光学入門」という公開講座を自主運営することにした。お陰様で大変好評を頂き、ありがたい。参加者から直接頂く「来てよかったです」の一言が何よりのやりがいを感じるときだ。企画の発端は、知人の数人から「鮫島さんの話は大学以外で聞けるところはないの?」と訊かれたことだ。しかし、大学教員である私がなぜそこまでしてと揶揄されることもある。また他の同業の教員からは「あいつ何やってんだろうと」きっと考えている人も多いだろうと推測している。
21年間旅行会社でサラリーマン生活をしていた私は一念発起、転職し大学教員になった。大学教員は、よく実務経験者教員と研究者の違いで使い分けされることもあるが、自分への期待を考えれば、一義的には実務家教員としての期待である。もちろん研究者としての気概はあるが、これまでの実績を考えれば、アカデミックな世界を歩んできた研究者に比べれば叶わないことはよくわかっている。そんな中2年目を迎えるに当たり、自分なりに新たな目標を立てた。それは、「常に最高の授業を学生に提供する」ことだ。教員になってわかたことは、多くの学生が奨学金で学費を納めていることだ。正直、教員になる前までは学生は学ぶやる気がないと先入観もあったが、実際やってみると、借金をしてまで大学で学ぶ意欲のある学生が少なからずいることがわかった。そういう学生は、経済学でいう「機会費用」の意味を噛みしめていて、大学に行かずに働いて収入を稼ぐ以上の学ぶ価値を得ようとしている。
一方、大学の授業はつまらないと言われる。単位を取るためだけに出席し、とにかく卒業できればよいという学生も多い。その構造の背景は、授業の評価が大学の収入に影響しないことだ。高校生による大学選択の基準は、授業の評価ではなく、その多くはブランド力に依存している。優秀な学生の輩出よりは、無事に卒業させることがなにより優先されている。従って、いくら「つまらない」授業も「面白い」授業があっても、直接的には収入が変わることはない。大学の収入は、学生からの学費と文科省からの補助金で運営されている。学生からのアンケートを授業評価として点検する制度はあるが、それが収入に影響することはない。もちろん、大学が教育だけでなく、研究機関としての役割もあるので、民間企業のようにすべてを収入に直結させることが良いとは考えていない。
しかし、そうした環境の中で、「常に最高の授業を提供する」という私の目標の達成度を測ることは不可能だ。借金をしてでも学んでいる学生たちに、それに値する授業を提供できているのか、いつも頭の中をよぎっている。学生の授業の評価は、授業中の表情や態度ですぐわかる。まったく関心を示さず、居眠り、おしゃべりもあれば、目を見開いてペンを走らせることもある。そうした表情や行動もひとつの指標ではあるが、本当にお金を払うほど価値があるかどうかはわからない。
そうした問題意識のもとに始めたのが「旅人のための観光学入門講座」だ。自分の講義がどれくらいの価値があるのか、それを測るために自らに課したテストの場であり、武者修行の機会だ。わざわざお金を払ってまで行く価値があるのか、きっと厳しい洗礼を浴びると思う。そうした緊張感の下で、自分の授業に磨きをかけ続ける。一人でも多くの学生が大学に入ってよかったと実感してもらえるようになれば、これ以上嬉しいことはない。
(以上)
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